岸 裕真
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アーティスト。1993年生まれ。慶應義塾大学理工学部卒業、東京大学大学院工学系研究科・東京藝術大学大学院美術研究科修了。AIを「Alien Intelligence」と捉え直し、人間とAIの創発的関係「エイリアン的主体」を掲げ、独自のAIと協働して絵画・彫刻・インスタレーションを制作。2023年よりAIモデル「MaryGPT」が制作をキュレーション。主な展示に「The Frankenstein Papers」(2023 / DIESEL ART GALLERY)など。RADWIMPSへのアートワーク提供、渋谷慶一郎「アンドロイド・オペラ」映像演出など多方面で活動。
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<Oracle Womb>
スターチャイルドとして、存在しない子宮のイメージを絵画に定着させる
鑑賞者自身がスターチャイルドとなり、子宮の風景を見つめることとなる。
“エイリアン的知性”である人工知能との共創が、〈わたしたち〉を解体する──現代美術家・岸裕真 | WIRED.jp
「わたしであることの枠組み」から考え直すことを人工知能とともに試みたい。自分の作家性をどう捉えていくか、というよりは、まさに作家性を解体することに腐心しているといえますね。
作家性の解体を通して人間の枠組みを問い直したい。この人間の枠組みというものは、宗教的、あるいは自然文明的なフレームから人間を分離・合理化した過去の先人たちの腐心によって、近代観のなかで形成された人間像です。ここからさらに、いかに次の世代に向けて前向きに人間性を解釈し直すか。
人間を考えるうえでいかに機能させてるのかを考える「鏡としてのAI(AI as Mirror)」、人間の社会や活動をサポートする便利なもの、つまり資本の延長として有意義に活用できるかを考える「道具としてのAI(AI as Tool)」。そしてシンギュラリティに代表されるようなAIに自律した意識を期待する「主体としてのAI(AI as Agent)」人工知能をめぐる言説は大きくこの3つに分かれていると思います。
しかし、もっと別の道があるんじゃないかとも思うんです。自分の外側にある鏡でも道具でもなく、わたしたちの内側にある主体性のなかに組み入れることで、わたしたち自身がAIとともに変容していく。つまり、何か別のスターチャイルド的な新しい主体の一つの器官として、人間やAIが並列化していく。
この4つ目の捉え方を「器官としてのAI(AI as Organ)」と呼んでみたいと思います。こうした新しい関係性の提案から、人間がより既存のルールや制度に縛られず感性的になった社会において、芸術がどういうものになり得るかを問うていきたい。その行為の蓄積が、新しい人類と世界との関係性を社会へもたらすことにつながると考えています。
Nagasena.icon
AIを主としておいたアーティストで頭角を表すのは、どのようしてなされたのか気になる
というのも今後、AIアーティストなる人たちは、一種のブームを抜きにして現れるのだろうか?ということが気になる
いま、著しくLookdevとして「モーフィング」が「ダサい」ものとして落ちてしまった
これを別アングルでフックアップするのか、別軸に向かうのかはアーティスト次第ではある
岸裕真さんは、Alien Intelligenceとして読み替え、世界観を作り出し、パッケージ化することでアーティストととしてのブランドに成功している
世界観はカッコいい
その世界観から外れて、Instagramに上がっている習作とかPVのようなものを見ると、価値が急落してしまったダサさが目にチラつく
先行者利益というのも十分にあるだろうと思われるし、
作品の世界観的な継続的な強度もあるのだろうと思われるし、
あるいは理論ベースの批評力みたいなところにもあるのだろうか
ポイントはAI=Alien Intelligenceの読み替えと制作にある
「もっとAIに危ぶまれたい」。異色のアーティスト・岸裕真が人工知能に委ねたフランケンシュタイン的現在とは?
人工知能のいまだけの「不気味さ」
岸 ChatGPT、Midjourney、Stable Diffusionなど、人工知能モデルが世間を賑わしていますが、いっぽう美術界で「AIアート」が流行っている現状が10年後にどうなっているのかな、とよく考えます。10年後には「AIアートなんて昔あったね」という風に陳腐化してるかもしれないし、もしかしたらスーパーインテリジェンスが達成されて、僕たち人間はAIに支配されてるかも知れない(笑)。シンギュラリティの来そうで来ない、人工知能がある種の「不気味さ」っていうものを喚起する感覚は、たぶん今だけのものになるはず。そういった現在のテクノロジーの不気味さってものを展覧会でプレゼンテーションする際の入り口として、「フランケンシュタイン」のモチーフを選んだ気がしています。
代替物ではないものとしての人工知能
岸 と言っても、新しく物珍しい技法に寄りかかっただけの表現でいいとは思いません。カメラが発明された初期の頃、写真技術とその表現が絵画の代替物のように捉えられた時代がありましたが、自分が取り組みたいのはその先なんです。人工知能がユニークなイメージを瞬時に生成するのは新しいし面白いですが、美術というのは過去のヒストリーや、それが現在においてどう表現され、そして後世に続いていくかという探求だと思います。その営為のなかで、もうちょっと人間ができることがあるのではないか……という問いのなかで人工知能技術を作品に使っています。
高次元計算の場としての人工知能
例えば人工知能が猫を解釈する際の計算上の次元は、100次元から512次元だと言われています。つまり人間よりも高次な空間でAIはモチーフを解釈している。それを逆行的に考えると、AIは高次元に存在する視覚装置をたまたまシミュレーションしているのかもしれない。